500円玉が使えなかった道端の自販機と、じわじわ感じる国の余裕のなさ

道端の自販機と、新しい500円玉が使えなかった話

ちょっとのどが渇いて、道端にある自販機でジュースでも買おうと思った。

小銭入れに入っていた500円玉を入れてみたけれど、カシャンとそのまま戻ってきた。

あれ?と思って別の500円玉を試すも、やっぱりダメ。釣り銭切れの表示もない。売り切れでもない。裏表を変えたり何度かチャレンジしてみても、結果は同じだった。

じゃあ紙幣なら……と1000円札を入れてみたけれど、これもウィーンと戻ってきた。

結局、飲み物は買えなかった。

新しい硬貨に対応していなかったらしい

あとで気づいたのだけど、この自販機は新しい500円硬貨や最近出た新紙幣に対応していなかったのだと思う。

2021年に発行された現在の500円玉は、3代目にあたるらしい。偽造防止のために、2色構造の「バイカラークラッド硬貨」に変わったのだという。

最初はちょっと驚いたけれど、そういえば硬貨や紙幣が切り替わるたびに、自販機の一部で「使えない」という事態が起きることは過去にもあった気がする。

ただ、今回の硬貨は2021年発行。すでに3年以上経っている。

それでも、現役の自販機が対応できていないというのは、少し残念な話だった。

売り物の値段は爆上がり。サービスの質は直下行だ。

昔なら、もう少し早く切り替わっていたのでは?

記憶をたどると、平成の中頃までは、こうした場面に出くわすことは少なかったように思う。

たとえば新紙幣が発行された際には、できるだけ早く券売機や自販機を更新するような動きがあった。
「お客様にご不便をかけないように」という姿勢があちこちに感じられた。

もちろん今も、それを目指して努力している人はたくさんいると思う。
でも、社会全体として「そこまでできない」という空気が、以前より少し濃くなっているように感じる。

かつては「格好」を気にする余裕があった

昔の日本は、少し“格好をつける”ことにこだわりがあったと思う。

たとえば最新の設備を導入していること、スムーズに動くこと、細かいところにも気を配っていること——そういう目に見えない「丁寧さ」や「スマートさ」を大切にしていた時代があった。

それが今は、どこか「合理性優先」「不便でもまあ仕方ない」といったムードに変わってきている。

技術的な話ではなく、余裕の話。
人も企業も、もしかすると国全体も、ちょっと疲れているのかもしれない。

500ウォン硬貨のことも思い出した

ちなみに、500円玉といえば過去には“500ウォン問題”もあった。

初代500円硬貨は韓国の500ウォン硬貨と材質やサイズが似ており、表面を削って自販機で使われるという事件が多発。
それがきっかけで2000年に2代目硬貨が導入されたという経緯がある。

そうした過去を踏まえて、3代目ではさらに偽造防止技術が強化された。それ自体は前向きな取り組みだけれど、その恩恵をきちんと受け取れる状態が整っていないのは、少し残念だ。

日常のなかの「国のかたち」

たかが自販機、されど自販機。

たった一つの買い物ができなかっただけの話だけれど、そこには意外と多くのことが詰まっている気がする。

整備の予算、人手、交換コスト。
設備が古いまま放置されがちなのは、あちこちで起きている現実だ。

誰が悪いという話ではないけれど、なんとなく「国としての体力が落ちてきたな」と感じてしまう。
言い換えれば、かつてあった“余裕”や“気配り”が、少しずつ削られているように思える。

ただ、ちょっと残念だっただけ

別にジュースが買えなかったからといって、怒っているわけじゃない。

でも、こうした出来事が積み重なると、「あれ、前より少しだけ不便になってない?」という感覚が残る。

そういう小さな違和感の集まりが、今の日本を映しているのかもしれない。

自販機の前で財布をしまいながら、そんなことをぼんやり思った。

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